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第102回令和5年立春の坐禅会を終えて〜初心〜

今年も節分が明け、立春となりました。

この日は第102回となる早朝坐禅会を和歌山市の珊瑚寺にて催しました。

初回の坐禅会は、遡ること2012年10月10日に開催し、今日に至ります。

丸10年と数ヶ月、本年で11年目に入るわけで、10という数字がひとまとまりの数を表し、また1が始まりを表すものですから、本年からは新たな一歩として本webでもブログなどを残していこうと思います。

坐禅会に参加するとなるとやはり、その前にそもそも坐禅に興味がないと出会いもなにもないのですが、私の場合、その興味はどこから来たのかというと、今思い起こせばの話なのですが20代のころから相田みつをさんの作品に触れたり、禅語に出会ったりしながら、なんというか本質を端的な言葉でズバッと切り込むようなそんな世界観に魅力を感じていたというのはあります。

それから、これも20代のころからずっと愛用しているアウトドアブランドのpatagoniaなどなんかでは、経営のスタイルから製品デザインに至るまで禅を取り入れていることも知られていましたし、2007年、ちょうど私が30歳になったころにiPhoneが誕生し日本でも人気が爆発、2011年iPhone産みの親であるAppleの創業者・スティーブ・ジョブズが日本の禅に傾倒していたことがよく知られるようになっていきました。

思えば、私のよく目にしていたもののレイヤーの奥には、いつも”禅”があったのです。

そんなまだまだ境界線が曖昧なままですが、2010年を過ぎてから曹洞宗の鈴木俊隆老師の禅マインドビギナーズマインド(サンガ出版)や西嶋和夫老師の幸福な生き方(日本経営合理化協会)の本に出会って、禅の考え方に触れて結構な衝撃を受けたのを記憶に残っています。

心境を振り返ってみるに、20代のころは、人生を仕事をどう生きていくか、暗中模索というかそんな中だったと思います。

いい大学を出て、いい企業に就職し、、、というレールもありがたい話なのですが、そもそも何かしら前提を疑う偏屈な癖を持つ私ですので、世間一般といわれるレールすべてに疑問を持っていましたので、まぁ、普通考えないほうがいいことも自分なりの拙い脳みそで考えたわけです。

そこで、まぁ、自己啓発書も読みあさりましたし、セミナーなんかもちょくちょく参加したりしていましたが、まぁ、一言で言えば飽きたというか、どれだけたくさんこれらの本を読んだところで知識を増やすだけでは何もよくならないわけで、著者や出版社の養分にだけなって人生が終わりそうな気がして卒業していったという感じですかね。その止める決定打になったのが「禅」との出会いなんだと思います。

では、何が違ったかというと、禅は非常に具体的だったという点でしょうか。

具体的という漢字を見ましても、”具(つぶさ)”に”体”を”的”を当てるという字を使いますように、禅は根本指針に坐禅があるように、哲理がしっかりと身体(行動)にまで落とし込まれている感じがして、いつも総論賛成各論反対で終わるいわゆる政治家が掲げるスローガンのように観念的で終わらない何かがありました。

もちろん、仏教そのものが心身一如という言葉があるくらいですし、ヨガや古いインドの叡智などに遡っても、身体を使った修行というのも重視されています。私はいずれも私がその優劣を評価できるような立場ではないのでそういう意味ではありませんが、より日本的な禅、とりわけ「只管打坐」というように指針が一本明確であった道元禅師の考え方が刺さったのもあり、今も道元ファンを続けています。(厳密には私は特定の宗派を侵攻しているわけではなく、お釈迦様もキリストも、孔子も老子も孫子も、空海も親鸞も全部好きな無宗教ではない非宗教の立場が好きです。だから”ファン”止まり)

禅では、「掃除」や「坐禅」がそうであるように身体を使うことを重視しており、確かに禅寺などにいくと境内は掃き清められ、顔が写りそうなくらい毎日磨かれている床などを見たりして感動を覚えることがありましたし、坐禅、つまり正身端坐というのは、つまり姿勢を正せば自ずと呼吸も正され、心も正されていくというような考え方です。

道元禅師の主著・正法眼蔵では「身心学道」というのがありますが、これも心身ではなく身心と書きますから、いかに身体性が重んじられていたのかが推察できます。

だからこそ、鎌倉時代の武士に受け入れられたり、それから世阿弥の能や茶道などの規矩にも大きな影響を与えたのかもしれませんが、いずれにせよ、身体(型)から入るところに私なりにピンと来たのです。

庶民が理解に苦しむようなよくわからないマニフェストや具体性の伴わないスローガンよりも、掃除で一人一人の身の回りが少しでもキレイになるとか、坐禅で身体も心も調子がよくなるというほうが人の心に寄り添っている気がしたんですよね。

鎌倉時代の道元禅師、遡れば空海や最澄、聖徳太子、、、お釈迦様になるのでしょうが、2600年、歴史の中で連綿と紡がれてきた叡智に触れる機会があったのは「人身は受け難く、仏教には遇い難し」とまさにいうように千載一遇のことであったかとも思っています。

その機会のお裾分けといいますか、自分だけの機会で終わらせるのも不徳かと思いましたので坐禅会を催し続けているというのがあります。

さて、春の始まり、11年目の坐禅会ということで少しばかり私なりのお話をさせていただきましたが、これからも坐禅会、それから禅への参究も自分なりに進めていきたいと思います。

少しハードルの高そうな門だとは思われがちな禅の世界ですが、ご興味のある方はお気軽に私どもの坐禅会に足を運んでくださったらと思います。

それでは、新たな10年の幕開けとなりましたが、どうぞよろしくお願いします。

珊瑚寺・坐禅会 世話人 寛和

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